津波直後は、100人くらいの方を社務所でお世話しました

天照御祖神社宮司 河東直江さん

 

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 満開の桜の下、参勤交代の侍や神楽や虎舞に手踊りの女性たち、稚児装束の子どもたちが練り歩く「釜石さくら祭り」。唐丹町民総出で行われるこの祭りを代々執り行ってきたのが、天照御祖(あまてらすみおや)神社の宮司である河東家です。現在の当主、河東直江さんにお話しをうかがうことができました。

――天照御祖神社は、3階まで水が押し寄せた唐丹小学校のすぐ近くの高台にありますね。3.11の夜、小学生たちは、こちらに泊まったのでしょうか。

 

河東 私は神社庁の会議で盛岡に行っていまして、津波は見ていないんですが。盛岡から車で南まわりのルートで帰ってきたところ、大船渡市と唐丹町をつなぐ鍬台(くわだい)トンネルの入口付近で渋滞にあい、足止めされました。2時間くらいして通れるようになり、「津波のせいかな」とは思いました。しかし昭和の大津波の高さを越える11.8mの堤防がありますし、これほどの状態になっているとは想像もしませんでした。

 

 夕方7時頃に神社に着き、社務所に大勢の人が集まっているのでびっくりしました。


――3月の夕方7時頃ですと、すでに暗かったかと思います。

 

河東 それで、どうしてこんなに人がいるのだろうと。暗いので、町のようすは見えません。

 というのも、当神社の境内は津波の一時避難場所になっていますが、夜を明かすような避難所ではありません。もちろん、すぐに理由がわかりました。通常の避難所となる小学校や公民館が使えなかったんですね。

 

 小学校の体育館と校舎は浸水し、地区集会所の片川集会所は片岸川上流の川目地区にあるのですが、すぐ下の集落まで津波が押し寄せ通行できなかった。そのうえ北隣の小白浜地区にある中学校は耐震性が不十分な校舎・体育館のため使用できなく、唐丹公民館は基礎の石垣まで津波が来ていて地盤が危なくて使用できなかったらしいです。

 

 夕方になって、一の鳥居の南側にある小学校の児童と教員、二の鳥居の北側にある児童館の園児とその先生方は南隣の荒川地区の集会所に移動。残った大村技研という工場の社員と片岸地区の人たちなどで総勢100人以上が泊まったかと思います。


――いつ頃まで、「避難所」状態が続いたのでしょうか。

 

河東 当日の夕方には荒川集会所に移動していた子どもたちは親が迎えに来ましたし、片岸地区の人たちのうち、家の被害が軽かった人たちも帰っていきました。翌朝、大村技研の人たちも、釜石市内へ通じる国道45号線が不通だったなか、歩いて自宅へと帰られました。ガレキのなか大変だったと思います。なかには三陸鉄道のトンネルを歩いて帰った人もいたとのことです。ですから、翌日には一挙に減りました。

 

 それからだんだんに親戚の家に行かれたりして、最後の方が出られたのは、残った人たちが片川集会所に移動合併した417日でした。


――約1か月の間、食料や寝具などはどうされていたのでしょう。

 

河東 物資は、たくさんありました。国道が神社裏を通っている関係で、他地域の人たちからわかりやすい場所だったからだと思います。野菜は隣の荒川地区からたくさんいただきましたし、神社関係のネットワークからも、米をはじめ、いろいろ送られて来ました。社務所南向かいの広場にテレビ局の取材基地が設営されて、マスコミによく取り上げられたこともあって、物資面で不自由することはありませんでした。

 

 煮炊きなども、なんでも町内の方たちがやってくださった。よいメンバーがそろっていたので、うまくいったのだと思います。

 食器は、当神社に備えてあるもので大丈夫でした。毛布も荒川集会所で災害用に準備していたものや、流されなかった家の方からいただいたもののほか、社務所にもたくさんありましたので、緊急時としては過ごしやすかったのではないかと思います。


――電気、水道、電話施設が津波で破壊され、なかなか復旧しませんでしたね。

 

河東 そうなんですよ。唐丹町は釜石市内でも遅かったですが、なかでもこの片岸地区は遅かったです。

 

 ただ、当神社には市の水道以外に、山水を導水している古代からの水路があったんです。もう一つよかったのは、参拝者用のトイレが水洗でなかったことです。近々水洗にする予定だったのですが、そのままになっていました。それが役に立ちました。社務所内のトイレは停電で使えませんでしたから。

 

 電話は7月ぐらいまで不通だったんじゃないかな。九州にいる大学時代からの知人が、「電話をかけても出ないから、流されて亡くなったと思った」と言っていました。


――大災害時には原始的なインフラが役に立つ、と。

 

河東 そういえば、幼稚園と小学校、地区の町内会、これら3団体は毎年33日、境内に集まって避難訓練をしていたんですよ。33日は、昭和8(1933)年の大津波の日です。

 津波があった年も8日前に行っていました。今回、子どもたちの犠牲者が少ないのは、そのおかげかと思います。訓練どおりにスムーズに社務所前広場に上がってくることができました。


――神社というのは、津波を避ける位置に建てられているような気がします。

 

河東 神社は歴史的に見ると、たいてい津波に流されない山のようなところに造られていますから。そのため、三陸沿岸の神社のほとんどが避難所になっています。

 

 昔から、津波で流されるたびに地域の人たちは神社に来て、泊まったのではないでしょうか。津波後の5月、茨城に住んでいる方が御見舞にこられました。子どものとき、おじいさんから「明治の津波で流れて、お宮に世話になった」という話を聞いたそうです。

 

 しかし、今回当社務所に津波が到達しなかったのは、下に建っていた鉄筋コンクリート造の小学校が堤防の役割を果たしてくれたようにも考えられます。もし小学校の高い建物がなかったら、神社南側の社務所前の沢伝いに津波が沢上りしたのではなかったか。唐丹駅前で津波を見ていた人によると、当神社の一帯は押し寄せる波に浮かぶ島のようだったそうです。波がバアーンッ、バアーンッとぶつかっていったらしいです。

 

 境内に避難していた小学生たちは、湾内の水がずうっと引いていくのを見て、「次はもっととんでもない大きな波が来る」と裏山をさらに駆け上がったそうです。が、最初のほうの一番大きい津波よりは小さかった。そのときの津波は国道45号線を越えて駅のホームに乗りました。ホームから転落し、けがをして当神社に運ばれてきた人もいらっしゃいました。

 

 私の車が鍬台トンネルの入口で進めなくなったのは、国道45号線に津波が押し寄せていたからだったんですね。道が水没していたわけです。

 

 ただ当神社も、かつての社務所は御山の下にあり、明治291896)年の大津波で流され、昭和8年の大津波でも流されました。その後、現在の場所に移っています。

 

天照御祖神社の山門
天照御祖神社の楼門は、「釜石さくらまつり」の神輿がくぐれるように3階建の高さになっている。左手奥のシメ縄がかけられているところが古代祭祀の場であった磐座(いわくら)

――天照御祖神社は1000年以上の歴史をもつと聞いています。

 

河東 はい。当神社はこの御山(おやま)を神域として尊び祭る、古代祭祀の場であったことに始まります。社務所が下にずっと置かれていたのも、御山自体がご神体であり信仰の対象とされていたからと思われます。

 

 1200年ほど前の大同2(807)年に時の征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷軍の総帥大蟇王(たものきみ)を滅ぼし、その残党である常龍鬼(鬼とは大和軍が敵対する強い大将に名付けた言葉)を唐丹において討ったと記された石碑が残っています。

 

 この常龍鬼の霊を慰めしずめることを目的として大和朝廷が十一面観音を当神社に奉納して社殿が造営され、それから舶来の文化である仏教と日本古来の神さまとを一緒にまつるようになりました。神仏習合ということですね。

 古代の道は、いまは裏山に林道と堀割のような形でしか残っていませんが、かつては重要な道で、ここは交通の要衝でした。また当神社の奥山宮の奥の院は、中世武士団の時代には砦のような存在だったと思われます。

 

 150年ぐらい前の江戸時代末期に清水峠という新しい峠道が海側半島寄りの山に開かれ、さらに昭和に入って旧国道45号線(現・市道)が御山の中腹を横切るようになってしまいました。その後、神社裏の山手を熊の木トンネルが貫通して新たな国道が通り、三陸鉄道南リアス線の唐丹駅も近くにでき、このために堀割の一部が埋め立てられるなど、御山周辺と古代の峠山道の姿が変わってきてしまいました。


――毎年、元朝詣りにうかがっているのですが、まったく知りませんでした。唐丹の歴史が凝縮されているような場所なんですね。

 

河東 裏に国道が通るようになってから、いま御参りに来られる方の大半は、鳥居をくぐらず裏手からいらっしゃるようになりました。津波で一の鳥居はなくなってしまいましたが、下から参道を上がられたほうが御山のたたずまいがよくわかると思いますよ。

 

 震災後、いちばんの問題は、唐丹町の人口が大きく減っていることだと思います。このままでは3年に1回の式年大祭いわゆる「釜石さくら祭り」の復活も難しいです。

 

 流出した装束やお道具がそろったとしても、人が足りず、お供の行列が組めません。たとえば大石地区は、虎舞と10人くらいが御弓(おゆみ)を持って出る役目なんですけれども、両方ともできない感じですね。老人世帯だけになってしまいました。これは、津波がこなくても同じ状況だったでしょう。

 

 当神社の氏子は、流出や浸水で350戸ぐらい被災されました。当神社のある片川地区は62戸ほど流出しましたが、よそに移られた方が多いです。仮設住宅ができたのも唐丹町内で一番最後でしたが、そこには20戸も入らず、四十何戸かが空いていました。


――お祭りはぜひとも復活してほしいです。武士がほとんどいないのに、参勤交代の行列をくり出すところなど、唐丹は遊び心のある地域のような……。

 

河東 そうですね。身分制度が厳しい時代に、仮装とはいえ、ほんものの刀を持って歩いたとは思えませんので、竹や木などで工夫したんでしょうね。伝わっている装束も、よく見ると半纏(はんてん)なんです。江戸時代に本郷地区に伊達藩の番所がありまして、そこに駐屯していた侍から教えられたということです。

 

 この祭りを続けられるかどうか、一番の問題は人口減ではないでしょうか。津波でそれが加速したと思います。

(取材日 2013年4月28日)