鹿踊りの復活は難しいですが、かさ上げされた田んぼで米づくりをがんばります

 

 鈴木賢一 さん

 

 荒川の鹿踊り(ししおどり)は、鹿の頭(かしら)をつけ、2メートルくらいのささらを上に向けて腰にさし、長いささらを頭上で豪快に揺らし太鼓を叩きながら踊ります。この踊りを代々支え、受け継いできた鈴木家〈屋号:小倉口(こなくち)〉の当主、鈴木賢一さんのお話をうかがうことができました。

〈取材協力:木下敏正 さん/行山流舞川鹿躍保存会

 


――鹿踊りは宮城県北部から岩手県で踊られ、いろいろなスタイルがあると聞いています。荒川の鹿踊りは、何頭で踊るのですか。

 

鈴木 鹿は8頭いて、真ん中に立ち、中心になって踊る中立(なかだち)という踊り手がいます。中立は鹿のボスですね。セリフを言うのも中立だけです。私が踊っていた時は、木下卯之助さんが中立で、みんな、その人から教えられて踊りました。木下家は屋号が林なんで、林のじいさんと呼んでいました。

 

 林のじいさんが引退する時に、代々の中立に伝わってきた書き物を「おめさ(お前に)、やっから」とうちに持ってきましたが、津波に持っていかれてしまいました。そこにはこの踊りが350年前から始まったと書いてありました。それがいまから30年ぐらい前のことですから、始まった時期は、それがたされる計算になります。

 

 その書き物や太鼓、衣装、それに市民会館に行って踊った時のビデオもあったのですが、全部流されました。それで、今日お話するのにも材料がなくて困っています。

 

――350年以上も、荒川で受け継がれてきたんですね。どのように始まったのでしょう?

 

鈴木 その書き物には、日頃市(ひころいち:大船渡市日頃市町、唐丹町の内陸側南隣り)から唐丹に働きに来ていた人が伝えたと。亡くなった人の供養に始めたというような話だったと思います。

 その人は、本郷の大家(おおや:屋号、おそらく山澤家)で働いて唐丹で亡くなったのですが、私の家を宿にしていたところから、踊りを教えたということです。

 うちの家は流される前は、おかみ(神棚のある部屋)だけでも15畳あったので、雨の日でも練習できました。

 

 その人が覚えていたということは、日頃市でもその頃踊っていたのでしょう。こっちに稼ぎにきたから、こっちにも教えるか、ということになったのかと。

 

 林のじいさんの前が東別家(ひがしべっか:屋号)のじいさん、東 辰之助さんが中立でした。その前は私はわかりませんけれども、ずうっとずうっと、代々、年長の人たちが中立を勤めてきたわけです。

 

―― 子どものころ、盛岩寺(せいがんじ)の庭で踊っているのを見て、心が揺さぶられたのを覚えています。どういう内容なのですか。

 

鈴木 亡くなった人を供養する踊りです。だから、お盆にやります。最初に盛岩寺に行って拝み、それから荒川の初盆の家に行って拝んだり、お墓に行って拝んだりします。頼まれれば、片岸や山谷の初盆の家に行って拝んだりしていました。

 私も山谷に行って、2回ほど踊ったことがあります。

 

 山谷の久保家にも鹿踊りがあったんですよ。うちで太鼓が一つ足りなかった時に借りて使ったことがありました。

 山谷では、歌の本こもなくなり、教える人もいなくなって、太鼓や頭(かしら)だのの道具ばかりが残っていました。

 山谷の鹿踊りの頭は昔のもので、今の花巻の鹿踊りのような彫り物ではないんです。板を合わせ、釘で打ちつけたようなものでした。

 

 荒川の鹿踊りの歌詞は、仏様を上げ申して悔やみを言い、回向(えこう)する内容が中心です。

 私が林のじいさんに歌詞を聞いて、練習用にコピーしたものがありますよ。

 

 

 荒川から片岸に行く時は、片岸の入口で片岸をほめて、橋を渡る時には橋をほめて、海沿いの道を通って小白浜の盛岩寺まで行きました。お寺に行ったら、お寺をほめ、回向の踊りをやりました。

 

――「昔こそ歌は三(さん)すじ七ななながれあさゆゆうとけさは一れん」。歌詞には文学的なところも。

 

鈴木 ほんとに素敵な文章でしたね。

 この歌詞が、林のじいさんは何も見ないで、すらすらちゃっちゃっと出てくる。

 

 亡くなった人のうちから頼まれた時には、一番先に馬屋をほめ、家をほめ、庭をほめて、それがひとくだり終わってから、拍子が変わって、本踊りに入ります。

 

――鈴木家は、どういう役割だったのでしょうか。

 

鈴木 私の家は、鹿踊りの別当(べっとう)、家主(やぬし)です。うちで道具を全部預かって、管理していました。

 

 太鼓や袴、幕など、何からかにから、私が花巻に行って新しくしていました。花巻の鹿踊りなど、かっこいいすから。そういうのに負けてはいられないという気持ちだったのですが、なかなか踊り手が集まらずにいました。

 うちの孫ひこの代にはできるかなと思っているうちに、津波が来てしまいました。もう無理かなあと思っています。

 

 荒川の鹿踊りは歌って踊って太鼓を叩いて、だからたいへんなんです。この太鼓がまた、難しくて。釜石の、よその鹿踊りは太鼓や笛の人が別にいて、踊りばかりだから、やりやすいかなと思います。

 

――鈴木家は、長く続いている家なんですね。何代くらいになるのですか。

 

鈴木 何代なんでしょうね。書き物が残ってないので正確にはわかりませんが、私で20代目くらいらしいです。

 

 私の家は昔は、ここから見える山を全部所有していました。山を監視する人が3人いたそうです。荒川に一番先にやって来たといわれてまして、その時、八幡様の氏神様も持ってきました。1代30年とすると、600年近く歴史があるかもしれません。

 荒川の熊野神社を受け継いでいるおやまね(屋号、鈴木家)は、うちの分家と聞いています。

 

――八幡様というと、源氏ですね。

 

鈴木 よくわかりませんが、源氏の家来筋なんだろうと思います。先祖は武士で、鎧(よろい)や刀数丁、槍などが伝わっていました。

 うちの先祖は、小白浜の親戚がお祭りの武者行列に使うというので、鎧と刀などを貸したんですが、その時、大火事が起きました。大正2(1913)年の大火です。親戚が命からがら船に乗り、対岸の大石の岸壁にたどり着いた時、船がひっくり返ったんだそうです。鎧と刀も、海に沈んでしまいました。

 やがて刀は大石の人に拾われ、そこの家に祀られていたそうです。しかし、その家に次々と病人が出たので、釜石の大渡町にいる巫女(みこ)のもとに行き聞いたところ、「ここの家にいる刀でねえから、元さ戻してけろ」って巫女が言ったと。

 そう言われても、「元」がどこかわからないので、そこの家では巫女に預かってもらうことにしたそうです。

 人づてに聞いた話で、うちではまだそこに行っていません。鎧のほうは、海に沈んだままなのでしょう。何も聞いたことがありません。

 

 槍は、ずっとおかみに飾っています。先が欠けていて武器としては使えないので、家に置いていても問題ないと思いまして。私が時どき、天ぷら油を塗って磨いています。

 

――昔、荒川には馬がたくさんいたんですか。

 

鈴木 田んぼのある家には、ほとんど馬がいました。馬で鋤(すき)を引っ張って、田んぼの土を起こすわけです。うちにも3頭いました。

 

 私は小学校6年生までの間、馬に乗って遊んでいました。川に連れていって、石垣の高いところに上がって、低いところにおいた馬っこの背中にポンと乗ってたなあ。

 

 しかし、馬の病気がはやった時期があり、その後、荒川から馬が消えていきました。うちの馬は病気にはならなかったんですが、それを売って耕運機を買いました。ちっちゃっこい、タッタカ、タッタカという音のクボタの耕運機。このあたりで一番先でした。

 

 昔、荒川には、どこの家にも田んぼがありましたね。

 水車小屋もありました。小川の上流で、水の流れを止めて、滝のように5~6メートル落として水車を回してました。

 私の小さいころは、水車小屋で米をついて、精米していました。

 

――水車、いいですよね。水の流れを利用する仕掛けって素晴らしいなあと思います。

 

鈴木 川の水もね、川から5畝(せ)くらいのところに深さ2メートルぐらいのため池を掘っていました。私たちは「つつみ」って言ってましたが。

 つつみは、高い位置に川からの水を取り込む入口を造ってあって、川からちょろちょろ水が入ってくるようになっています。その入口のところまで水が入り、川とつつみの水の高さが同じになれば、川から水が入ってこなくなります。

 昔の人は、頭がいいですよね。朝、つつみから田んぼに水を引き入れると、中は空になります。そこに、お昼までかかって、ちょぼちょぼと水が入ってくる。いちいち水門を開け閉めしなくても。

 

 そういえば、昔はろうそくで生活していました。だんだん、油が出回るようになってランプになりました。油を使うと、かさが汚れるので、毎日掃除しなければなりませんでした。

 

――ところで、2011年3月の津波の時は、どこにおられましたか。

 

鈴木 家の前の道路に立って、牛の様子を見ていました。私はずっと大船渡の会社に勤めていたのですが、そこを定年退職してからは、米づくりと牛飼いを仕事にしていました。休耕田を借りて、牧草を育て、それを乾燥草にして保存しておいて牛に食べさせていました。

 

 天気のいい日だったんですね。次の日は寒かったですが。雪も降ってきて。

 牛は草を食べたあと、一所懸命はんすうしていました。あの時は黒い和牛が5頭いました。

 ガタガタ音がする、大きな地震でした。これはぜったい津波が来ると思って、最初にトラクターを山に近い高台に上げにいきました。

 それから牛5頭を、家のわきの高いところに連れていってつなぎました。「津波が来きますよ」と言って、91歳になる私の母も、そこに行ってもらいました。乗用車もそこに移動しておきました。「ここまで波はこないだろう」と思ったのです。

 そうしているうちに20分ぐらいたったでしょうか。想像を超える高い波が来て、乗用車のところまで浸水しました。

 牛は、一番血統のいい2頭が死んでしまいました。荒川の海岸を回って片岸に流され、そこで死んでいるのが見つかりました。もう1頭は、太い木に挟まれている姿で見つかりました。2頭のおなかには子牛がいまして4月と5月に生まれる予定でした。その期待していたのが死んでしまい、牛飼いは断念しました。牛小屋を作るにも、お金がかかりますし。

 田んぼのほうは、2メートルぐらいかさ上げしてもらって復旧しました。

 復興予算で農業機械も揃えてもらい、助かっています。前を向き、米づくりをがんばっていきたいと思っています。

(取材日 2017年7月2日)