唐丹の海、縄文の海

photo by Hamada

 

 ずっと不思議に思っていたことがある。唐丹湾はなぜきれいなのか、ということだ。

 

 生まれ育った町故のひいき目はむろんあるだろうが、通り過ぎただけの人からも「きれいな町ですね」とよく言われる。

 リアス式海岸は宮城県北部からずっと続いており、いくつもの島影が映る海浜やダイナミックな奇岩が連なる名所も多い。唐丹湾には観光パンフレットに載せたくなるような撮影スポットは見当たらない。にもかかわらず、きれいな場所として心に残る。

 

 いや、観光地として売り出すほど、際立った景勝がないことがよかったのかもしれない。ここには、ただ海と浜がある。山に降った雨が川となり、土を運んだささやかな平地がある。

 

 日本の多くの町が高度経済成長をへて風景を一変させるなか、この湾岸は海と山の恵みによる営みを基本とし、大きく変わることはなかった。

 湾の外縁部が国立公園に指定されていることも影響しただろう。国立公園は法律により開発が規制されている。

 しかも、かつて各集落を結び海岸沿いに巡らされていた国道は、1970年代には大船渡から釜石の中心地に至る最短ルートに変更され、大方がトンネルとなった。

 したがって、海岸線より先に目に飛び込んでくる派手な看板も立つことがなく、観光客向けの施設もつくられなかった。階段状に並ぶ家々の軒先から見えるのは、暮らしの真ん中に海がある風景だ。

 

 唐丹の海の前に立つと、すがすがしい気持ちになる。なにか、ここでは海と山が清らかな気がする。

 唐丹湾の景観は、縄文の時代に海人たちが見ていたものとそう大きく違っていないのではないか。そんな気がしてくる。

 小白浜では竪穴式住居が、大石では貝塚が発見されている。その時代に生きた人々も、豊かな魚貝を糧に暮らしていたはずだ。

 

 浜に下り立ち、潮風を全身に感じるとき、私たちは縄文人になる。